>>農業中心の国家
パルティアを倒し、建国されたのがササン朝(224~651)です。
ササン朝は農業に基礎をおくイラン人の国家で、
イラン高原南部のファールス地方に建国されました。
ササン朝初代の王はアルダシールですが、「ササン」という名前は
アルダシールの祖父に由来する名前です。
アルダシールはパルティを滅ぼし、ゾロアスター教を国教とします。
そして、首都をクテシフォンに定め国の統一をはかります。
アルダシールが名乗ったのは「諸王の王」。またも登場ですねこの呼び名。
シャーが王、諸王の王はシャー・ハンシャーです。
>>シャープール一世
ササン朝2代目の王がシャープール一世です。
シャープール一世、ときたら、皇帝ウァレリアヌスを思い浮かぶ様にしましょう。
シャープール一世の在位期間は224~241年頃の話です。
この頃のローマは何時代か、わかりますか?
軍人皇帝時代真っ只中です。
ローマが分裂し、皇帝を勝手に名乗る者が続々と現れた時期です。
この軍人皇帝のひとりがウァレリアヌスで、
シャープール一世はエデッサの戦い(260年)でウァレリアヌスを捕虜にします。
※地図
ローマ軍との戦いが西方への遠征で、東方への遠征も行っています。
この頃の東方、インドは何時代でしょうか?
正解はクシャーナ朝です。こういう横の繋がりは覚え辛いところなので、ちょこちょこと挟みます。
時代を横断できる知識がつくと、面白くなります。
クシャーナ朝はまた後で出てきますが、カニシカ王で有名です。
シャープール一世の攻撃によって、衰退することとなります。
そして、シャープール一世は「イラン人及び、非イラン人の諸王の王」を名乗り、
中央集権的な国家体制を確立します。
>>エフタルの侵入
5世紀の後半になると、ササン朝は中央アジアの遊牧民「エフタル」の侵入を受けるようになります。
エフタルは中央アジアで活躍した騎馬遊牧民で、実は詳細はあまりわかっていません。
中国名で嚈噠(えんたつ)、もしくは白匈奴と呼ばれ、ササン朝と東西の交易路をめぐって争います。
中央アジアは色々な国家が複雑に入り交じるので苦手な方も多いのではないでしょうか?
地図でしっかりと確認をすることにしましょう。
※中央アジア エフタル
エフタルは、6世紀の前半には中央アジアの大部分を制覇し、
タリム盆地にも影響を及ぼします。さらに、インドの西北部にも侵入し、ここを支配。
これで、東西の交易路を手中におさめ、エフタルは大いに繁栄をするのです。
>>ホスロー1世の登場
このエフタルを倒したのが、ホスロー1世(531~579)です。
ササン朝ペルシア帝国第21代君主であり、ササン朝最盛期の王でもあります。
ホスロー1世はトルコ系遊牧民である突厥(とっけつ)手を組んでエフタルを滅ぼします。
突厥は中央ユーラシアの覇者であり、契丹を倒した大帝国です。
さらにホスロー1世は、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス1世とも戦い、勝利します。
そして、自国に有利な条件で和平を結ぶのです。
中央アジアには、匈奴、柔然、突厥、鮮卑、月氏などが入り混じるので、理解に時間がかかると思いますが、
エフタルを倒したのが突厥で、突厥はホスロー1世と手を組んでいた、というように覚えておけば、
時代の特定も出来るようになりますから、少しずつ覚えていけば問題ないです。
>>哲人王、ホスロー1世
ホスロー1世は、東ローマ帝国のユスティニアヌスがアカデメイア(大学のようなもの)を閉鎖した際、
それによって生じた亡命者を自国に受け入れたり、インドの哲学、数学、医学を学ぶため、
何度もインドに贈り物をし、その代わりに哲学者を派遣するように依頼したりと、哲学と知識の支援者でもありました。
さらに、プラトンのギリシア哲学にも関心をもち、ギリシアの難民たちを自国に受け入れたことから、
ギリシア人たちから「哲人王」と呼ばれるようになりました。
こうした、ホスロー1世の知識欲のおかげで、ギリシア、ペルシア、インド、アルメニアの伝統的な学問が、
ササン朝時代に統合され、この統合の結果病理学が発達、医学が顕著に発展し、
病理学に基づいて患者を隔離する、という概念が生まれ、最初の病院が生まれたとされています。
>>ササン朝の滅亡
ホスロー1世によって最盛期を迎えたササン朝ですが、ホスロー1世の没後、衰退することとなります。
まず、ホスロー1世の後をついだのが息子のホルミズド4世。
王位を継いだものの、クーデターが起こり、両目を潰された挙句に処刑されます。
さらにその後、ホスロー2世として即位したのがホルミズド4世の息子。
しかし、東方で内乱が発生し、ホスロー2世は東ローマ国境付近まで逃亡、王位を奪われます。
東ローマ帝国のマウリキウス力を借り、反乱を鎮圧したものの、
力を貸してくれたマウリキウス自身が自国のクーデターにより殺されてしまい、
首謀者であったフォカスが東ローマ帝国皇帝を名乗り、今度は逆にササン朝に攻めて来ます。
その後も、内乱と対外戦争が続き、国としては衰退の一途を辿ります。
さらに、新興勢力であるイスラーム勢力との争いも度々発生。
正統カリフ時代のイスラム軍との戦いは常に劣勢で、領土は縮小を続けます。
そして642年、ササン朝ヤズデギルド3世と、イスラム軍正統カリフ、ウマルが相対し、
ニハーヴァンドの戦いがおこるのです。
ニハーヴァンドの戦で、ササン朝は大敗。ヤズデギルド3世は逃亡を続けますが、
651年、ついに殺害されてしまい、ここにササン朝は断絶、滅亡します。
ササン朝の滅亡は、イスラム勢力からみれば世界帝国への第一歩ということで、
栄光の歴史として記憶されています。