オリエントと地中海世界 第一章

13.アレクサンドロス大王の東方遠征

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アレクサンドロス大王の登場

 

世界史にあまり興味がなくても名前は聞いたことがあるでしょう。

フィリッポス2世の子で、マケドニア王、そしてエジプトの王にもなる人物です。

彼は、前356年~前323年の32年間、数々の偉業を成し遂げました。

 

この頃の世界情勢はどうだったのか、少し知っておきましょう。

紀元前387年 -プラトンがアカデメイアを創設。

紀元前367年 -古代ローマでは、リキニウス・セクスティウス法が成立しました。

中国は、周の時代で戦国時代真っ只中。孟子、荘子などが生きた時代です。

 

世界史を学ぶ際にはこうして、その時代、他の国はどうだったか?

というのを理解しておくと、記憶を引き出しやすくなりますから、

少し面倒でも横の繋がりも覚えておくといいと思います。

 

ちなみに、リキニウス・セクスティウス法はどんな法律かわかりますか?

古代ローマで執政官の制度がありましたが、この執政官は2名と決まっていました。

このうち一人を平民(プレブス)から選出しなくてはならない、という法律。

 

これがもう少し進化して、後にホルテンシウス法が成立すると、

元老院の承認を得なくても、平民会の決定がローマの法律となる、というものです。

 

孟子は儒家で性善説を唱え、荘氏は道家で後に老荘思想と呼ばれる無為自然を唱えた人。

孟子と対立するのが荀子で性悪説を唱えました。

 

と、こんな感じでスルスルと関連項目が思い浮かぶようになると、世界が違って見えてきます。

いきなりはならないですよ。私もやってるうちにこうなりました。あなたもそうなります。

焦らなくて大丈夫です。少しでも疑問に思ったら調べる癖をつけておくと、早く身につきます。

 

さて、アレクサンドロス大王に戻りましょう。

アレクサンドロス大王はフィリッポス2世の子で、家庭教師はアリストテレスです。

この二人が出会っていた、というところに歴史の面白さを感じます。

 

ハンニバル、カエサル、そしてナポレオンが大英雄として尊敬した

アレクサンドロス大王の生涯を見てみましょう。

 

 

東方遠征の開始

 

 

父親であるフィリッポス2世はアレクサンドロス大王が20歳の時に暗殺され死亡。

父親のペルシア遠征事業は、息子アレクサンドロス大王へと引き継がれます。

 

そういえば、アレキサンダー大王とかアレクサンダーとか呼び名は色々ですが、

言語によって呼び名が違うだけで同じ意味です。念のため。

アレクサンドロス、はギリシア語読みです。

 

フィリッポス2世が暗殺されると、ギリシアは混乱に陥ります。

統率者がいなくなってしまったわけですから、この座を争って各地で戦争となります。

 

アレクサンドロス大王は、まずマケドニアを掌握。そしてギリシアを再び征服します。

そして前334年、父親の成し得なかった東方遠征(ペルシア遠征)を開始するのです。

 

 

全ギリシア連合軍を率いたアレクサンドロス大王。

まずは小アジアの征服に乗り出します。小アジア、というのはアナトリア半島のことで、

この呼び名はよく出てきますから、場所もちゃんと確認しておきましょう。

 

この小アジアを征服した時の戦いをグラニコス川の戦いといいます。

教科書には載ってませんが、この戦いはアレクサンドロス大王のリーダーの資質を見せるものでした。

 

 

カリスマ性を帯びるアレクサンドロス大王

 

マケドニア軍38,000VS小アジア軍40,000。

ド派手な甲冑を身につけたアレクサンドロス大王は自ら騎兵の戦闘に立ちます。

普通、大将というのは軍の後方に陣取り指示を出すものです。大将が死んだら終わりですからね。

 

大将が先頭に出てくるのは、自軍の士気を高めたり、敵への威嚇をする場合が多いのです。

 

ところがアレクサンドロス大王は自ら馬を駆って突進。

敵将ミトリダテスを投げ槍で倒すのです。これは両軍に強烈な印象を与えます。

 

自軍の大将が颯爽と馬に乗って敵将を投げやりでやっつけたら、

そりゃもうカッコいいですよね。こんな大将がいるなら負けるわけ無い、と思うわけです。

しかも投げ槍。こんなに鮮やかな勝ち方はありません。

 

敵からしたらもう絶望的です。いきなり自軍の将軍がやられるわけです。

将軍を倒した敵に向かっていくというのはかなり勇気のいることですし、

ましてやそれが敵の大将ともなれば、ものすごい恐怖です。

 

ミトリダテスは大将ではありませんでしたが、

この一戦でアレクサンドロス大王はカリスマ性を帯びて、

小アジアに陣取るペルシア軍を蹴散らして、さらに東へ進みます。

 

 

イッソスの戦い

 

前333年、アレクサンドロス大王はダレイオス3世の軍と戦います。

世に有名なイッソスの戦いです。

有名な絵がありますから、見たことがあると思います。これは、ポンペイから出土したものです。

(イッソスの戦いの絵)

 

ダレイオス3世のペルシア軍10万VSアレクサンドロス大王のペルシア軍4万

どう考えてもペルシア軍に勝ち目は無いと思いますが、アレクサンドロス大王は大勝します。

 

ペルシア軍は中央にファランクス部隊(超長槍部隊)を配置し、

マケドニア軍は左翼に騎兵隊、中央にファランクス、右翼にアレクサンドロス大王率いる重装歩兵。

 

アレクサンドロス大王はまたも自ら中央に進軍。ダレイオス3世に攻撃を加えます。

ダレイオスはたまらず逃げる。退却では無く逃げる。ペルシア軍の士気はガタ落ちでしょうね。

 

そこにさらにアレクサンドロス大王が追い打ちを仕掛ける。

もうこうなってくると、アレクサンドロス大王は敵からみたら悪魔のようです。勝てるわけがない。

 

最終的に、ペルシア軍は5万の死亡者を出しダレイオス3世は退却。大敗を喫します。

ペルシアは和睦を申し出ますが、アレクサンドロス大王は拒否。更に進軍を続けます。

 

 

ファラオになるアレクサンドロス大王

 

イッソスの戦いの後、シリア、フェニキアの征服に乗り出します。

シリアは反ペルシアの都市が比較的多く、容易に征服。

フェニキアは抵抗をするものの、アレクサンドロス大王の前には屈服せざるを得ませんでした。

 

さらに、エジプトへを遠征を進めます。エジプトはアケメネス朝ペルシアにより

征服されたばかりでペルシアの統治がまだ進んで居なかったため、

アレクサンドロス大王は解放者として迎え入れられ、支配は容易だったようです。

 

ここでアレクサンドロス大王はファラオとして認められることになります。

つまり、エジプト世界の王です。あのツタンカーメンと同格になるのです。

ファラオ名は、メリアムン・セテプエンラー。

アレクサンドロス大王は西部砂漠に都市を建設。これが現在のアレキサンドリアです。

 

 エジプトにて十分に休養と補給をした後、ついにペルシア王国征服へと乗り出します。

 

 

ペルシア征服

 

前331年、アレクサンドロス軍47,000は、ティグリス川上流のガウガメラにて、

再びダレイオス3世の軍と激突します。この時のダレイオス軍は20万とも30万とも言われています。

もう絶対に負けられません。総力戦です。(ガウガメラの戦い、アルベラの戦い)

 

しかし、ダレイオス3世はまたも敗走、マケドニア軍はペルシアの中枢を支配し、

さらにダレイオス3世を追撃します。

ところが、ダレイオス3世は家臣によって暗殺され、ここにペルシアは滅ぶのです。

 

さらにアレクサンドロス大王はインドへの遠征へと乗り出します。

前326年インダス川を越えてパンジャーブ地方に侵入、パウラヴァ族を破りインド中央を目指します。

 

しかしここで、部下の将兵や兵士が疲労を理由に進軍を拒否。仕方なく引き返すのです。

この時、東方遠征から7年が経過してますから、そりゃー兵士も帰りたくもなるでしょう。

 

引き返す時と言っても、ただ帰るわけではありません。残存する敵を駆逐しながら帰ります。

前323年スサへと帰還を果たします。実に10年ぶりの帰還です。

 

もしも、アレクサンドロス大王がそのまま東方遠征を続けていたら、

中国や場合によっては日本にもその手が及んでいたかも知れませんね。

歴史にもしもは無い、とよく言われますがこういうことを考えるのも面白味だと思います。

 

 

アレクサンドロス大王の死

 

大帝国を築いたアレクサンドロスは、次にアラビア遠征を計画していました。

ところが、祝宴中に倒れ10日間熱にうなされ、そのまま死亡してしまうのです。

 

 

アレクサンドロス大王は遺言を残します。

「最強の者が帝国を継承せよ」

 

この遺言が発端となって、彼の部将達が覇権を争うことになります。

この部将をディアドコイと呼び、後継者という意味を持っています。

彼らの争いを、ディアドコイ戦争と呼びます。

こういう用語が、結構試験に出ることが多いので覚えておきましょう。

 

最終的にアレクサンドロス大王の築いた帝国は、

アンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプト

のヘレニズム三王国に分裂し、一旦安定をすることになります。

 

 

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