エジプトはナイルの賜物
メソポタミアと同時期に、最も古く文明がおこった国がエジプトです。
エジプト文明を語る時に必ず出てくるのが、「エジプトはナイルの賜物(たまもの)」というフレーズ。
これはギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉です。
言葉の意味は、ナイル川によってエジプトというのは成立しているのだ、ということ。
この言葉の通り、エジプトはナイル川の恵みを受け、高度な文明を築いていました。
まずは場所を確認しておきましょう。
エジプトの場所は大丈夫ですか?
北にあるのは地中海、東にメソポタミア地方が見えますね。長細く見える湾は紅海です。
そして、ナイル川はエジプトを南から北へ、地中海まで流れ込んでいます。
衛星写真も見てみましょう。
ナイル川の周辺だけに緑が生い茂っているのがわかります。
現代でもエジプトは、ナイル川の恵みで支えられているのです。
ちなみに、ナイル川の源流はヴィクトリア湖とされています。
その場所はエジプトの南にあるスーダン、さらに南の南スーダン、そして更に南のウガンダ、そのウガンダの南部、ケニアやタンザニアの国境のあたりです。
長さは6,650km。世界最長の川です。日本の南北の長さ(沖縄~北海道)が大体3,300kmですからすっぽり2個分です。
ナイル川は毎年7月~10月に増水して氾濫を起こします。要するに洪水です。
一般的に、洪水は歓迎されるものではありませんが、当時のエジプトではこの洪水をうまく利用したのです。
ナイル川の氾濫
当時、一般的な農耕は略奪農法と呼ばれる農法でした。土の栄養を奪う農法のことです。
草や木は、土から栄養を得て育ちます。
通常であればこれらの植物が枯れ、微生物によって分解されてまた土の栄養となるのですが、作物が枯れる前に収穫してしまう略奪農法では、土に還るはずの栄養が無くなってしまいます。
これを、土地が痩せる、と言います。
こうした農法を続けていると作物は育たなくなってしまいます。
参考2.文化から文明へ
しかし、これを解決する手段がエジプトにはありました。
それが、ナイル川の氾濫(洪水)です。
エジプトを含む一体の地域では、雨季と呼ばれる季節があります。
この時期になると大量の雨が降ります。
毎年7月~10月は雨季ですので、この時期に川が溢れ洪水となるのです。
この氾濫によって、上流から栄養を含んだ土が運ばれます。
略奪農法で痩せた土地に栄養を与えることが出来、毎年良い土で作物を作れました。
作物が取れるということは、そこから新たな土地を求めて移住しなくても良くなりますから集落が形成されます。
これをノモス(村落)といい、エジプトには42のノモスが成立したと考えられています。
集団が形成される、というのは文明への第一歩です。
集団があるからこそ、役割分担が発生します。
そこから階級が分化していきますので、まずは集団が形成されるということが重要なのです。
世界最長の川、ナイル川
ナイル川は、白ナイルと青ナイルと呼ばれる2つの主支川から形成されます。
他にも色々な川が途中で流れこんできますが、それらを全部まとめてナイル川ということです。
ですから、ナイル川を地図で調べると、小さなナイル川が何本もあります。
青ナイルの呼び名は、白ナイルよりも一年を通して透明に見える、ということころから。
青ナイルの方が長さは短いのですが、エジプトに流れ着く水の56%は青ナイルの水です。
さらに、流されてきた堆積物の96%は青ナイルからのものです。
つまり、エジプトの土のほとんどが青ナイルによるものということです。
6月~9月の雨季には、ナイル川の3分の2を供給するほどです。
タナ湖から流れ出る青ナイル滝。 大迫力です
最終的には2つが合わさり、地中海に流れ込みます。流域にある国の数はなんと10ヶ国。
総延長6695km、世界一長い川です。
アマゾン川が世界一じゃなかったっけ?と思う方も居るかも知れませんが、アマゾン川は流域面積が世界一で、長さはナイル川の方が150kmほど長いです。
ところでヴィクトリア湖という名前、エジプトなのにイギリス風の名前です。
これには、ナイル川の源流探しが絡んできます。
ナイル川の源流調査は古代から行われているのですが、途中に湿地などの難所があり、長い間不明のままでした。
17世紀頃には青ナイルの源流がタナ湖であることはわかっていたのですが、白ナイル川については依然不明のまま。
手付かずの大自然の中を進むのは非常に困難なことなのです。
この源流探しに情熱を燃やした探検家達がいます。
今回はこの探検の様子を見てみましょう。
ジョン・ハニング・スピーク
1858年にイギリス人の探検家、ジョン・ハニング・スピークが湖を発見します。
この時のイギリスの女王がヴィクトリア女王。これにちなんでヴィクトリア湖と名づけました。
この時はまだ、この湖が源流である、と確定は出来なかったのですが、後の探検家ヘンリー・モートン・スタンリーによって、源流であることが確認されました。
つまり、ジョン・ハニング・スピークがナイル川源流の発見者である、というわけです。
ただし、先述した通りヴィクトリア湖には多くの川が流れ込んでいますので、真の源流探しは現在も続いています。
デイヴィッド・リヴィングストン
この源流探しの話しに欠かせない人物がいます。デイヴィッド・リヴィングストンです。
スコットランド生まれのリヴィングストンは、探検家であり宣教師であり、医師でした。
ヨーロッパ人としては初めてアフリカ大陸を横断し、その様子を詳細に記録した人物です。
当時のアフリカ内陸部は謎に包まれていて「暗黒大陸」と呼ばれていました。
アフリカ内部の様子は殆ど知られておらず、ヨーロッパでは非合法とされていた奴隷貿易も、イスラム世界のスルタン達によって公然と続けられている状態だったのです。
リヴィングストンは、奴隷解放にも尽力した人物です。
リヴィングストンがナイル川源流探しに関わるのは、3度目のアフリカ探検のこと。
王立地理協会から、ナイル川源流探しの依頼が舞い込んだためです。
時は1850年代。
ジョン・ハニング・スピークとリチャード・フランシス・バートンによって、ナイル川の源流探しが行われた時代。
源流はヴィクトリア湖である、とするジョンの説と、タンガニーカ湖である、とするリチャードの説があり、どちらの説が正しいか決着はついていませんでした。
そんな時代に、リヴィングストンは王立地理協会から依頼を受け、ヴィクトリア湖より更に南に水源があると推測し、1865年にイギリスを出発。
ボンベイを経由し、1866年に現在のタンザニアに到着します。
タンザニアの場所を確認しておきましょう。
過酷な旅
当初、集められたポーター(荷物運び兼案内人)は36人いましたが脱落者が続出。
最終的には4,5人しか残りませんでした。こういう時に諦めない人が歴史に名を残すのだと思います。
現地人でも脱落するほどの過酷な旅である上、行く先々で奴隷商人の妨害に遭います。
挙句の果てには、現地の奴隷商人に買収されたポーターが、リヴィングストンは暗殺された、などという虚偽の報告までする始末。
医療道具が入ったカバンも盗まれてしまいます。
やっとのことでタンガニーカ湖に到着し、さらにバングウェル湖を発見したたものの、飢餓と体調不良に悩まされそれ以上進む事ができなくなってしまいました。
体力を回復させるため、ウジジ村という近くの村で静養することにしたリヴィングストン。
ある日リヴィングストンは、近くの岸辺で1,500人もの奴隷が虐殺される場に立ち会います。
その状況を見たリヴィングストンは、奴隷解放の為に立ち上がろうとしたものの、その気力すらありませんでした。
今と違って通信機器もありませんから、イギリス国内では死亡説まで流れ始めます。
探し出そうという動きもありましたが、現地の妨害にも遭ってしまい思うように進みませんでした。
ヘンリー・モートン・スタンリー
そんな中で1869年10月、ニューヨークヘラルド社の特派員であったヘンリー・モートン・スタンリーに、リヴィングストン捜索の依頼がかかります。
スタンリーはすぐに出発しましたが、他の取材も並行して行なっていたため、ウジジ村に到着したのは1871年11月10日のことでした。
リヴィングストンが探検を始めてから実に5年が経過しています。
5年前に出発して帰って来ず、しばらく音沙汰も無いのですから、それは死亡したと思われても仕方ないですよね。
しかし、スタンリーはついに、リヴィングストンを発見します。
スタンリーがリヴィングストンの従者に引き連れられ、本人と会った際に発したセリフ
「リヴィングストン博士でいらっしゃいますか?(Dr. Livingstone, I presume?)」は、
イギリスにおいて、思いがけない人に対面した時の慣用句として使われるほど劇的なエピソードでした。
偶然街で思いがけず誰かにあったら、「Dr. Livingstone, I presume?」 と言うわけです。
日本語で言えば「あらひっさしぶりー!!」という意味合いです。
その時の様子を描いたとされる挿絵がこれです。
リヴィングストンの死
その後2人は4ヶ月を共に過ごし、スタンリーはリヴィングストンに帰国を促しますが、リヴィングストンはナイル川の源流を突き止めるため、さらに探検を続けました。
スタンリーは1872年にイギリスへ帰国の為に旅立ち、5ヶ月後従者と物資を送ります。
しかし、1873年5月1日、リヴィングストンはマラリアの複合症により息を引き取りました。
彼の遺体はイギリスへと運ばれ、ウェストミンスター寺院に葬られます。
彼が果たせなかったナイル川源流の探求は、意思を継いだスタンリーによって続けられ、ルウェンゾリ山地にある水源が発見されたことで、19世紀の源流論争にはほぼ決着がつきました。
アフリカの歴史におけるリヴィングストンの功績
ザンビアには、都市リヴィングストンがあり、記念碑と資料館が存在します。
リヴィングストンが暗黒大陸と呼ばれるアフリカを、測量術を用いて明らかにし、アフリカの正確な地図を作り上げ、さらにそこから交易のルートも生まれました。
しかしこれにより、皮肉なことに奴隷市場は活発なものとなり、奴隷貿易もより盛り上がることになってしまいます。
結果的にリヴィングストンは、ヨーロッパによるアフリカの植民地支配に貢献することとなってしまったのですが、リヴィングストンはあくまでも自分の第一目的は宣教であったと述べており、リヴィングストンの功績により多くの宣教師がアフリカにやってきたことも事実です。
源流探しの冒険家達の話は一旦ここまでです。
エジプトの王ーファラオ
では、話を戻しましょう。
エジプトはナイル川の氾濫をうまくコントロールすることでノモスを形成し、灌漑農業を発達させました。
灌漑農業とは、水をコントロールして行う農業です。
例えばダムを作って排水をコントロールしたりする、という農業です。
水のコントロールを治水、といいますが治水には共同作業が必要です。
共同作業が必要になるということは、これらをまとめるリーダーも必要になるのです。
その為エジプトは統合への道を歩むこととなります。
皆で協力すればより良い暮らしが出来るし、共同作業もやりやすいですしね。
集団が大きくなってくると、政治組織も次第に整えられてきます。
ざっくり言えば分業体制による組織体系です。
灌漑農業の発達によって、自ら生産作業をしなくても良い人が出てきます。
これがリーダーとなります。リーダーは皆をまとめて効率良く働かせます。
各地にリーダーが現れ、このリーダーをまとめるために「リーダーのリーダー」が必要になります。
この頂点に立つのが王です。
エジプトでは前3000年頃、メソポタミアより早く王による統一国家が作られました。
王のことを古代エジプトではファラオと呼びます。
ファラオは【大きな家】という意味を持ち、太陽神ラーの子であるとされました。
日本で有名なファラオと言えば、ツタンカーメン王や、クフ王でしょう。
名前を聞いたことがあると思います。
ピラミッド、と聞いてあなたが思い浮かべるのはおそらくクフ王のピラミッドです。
ギザの大ピラミッド、などと呼ばれたりもします。
神権政治による統治
統一国家を築いたエジプトは、周辺民族の侵入や外国の支配を受けることもありましたが、国内の統一を長く保つ時代が続きました。この間、約30の王朝が交替します。
その中で特に繁栄した時代を、古王国・中王国・新王国 の3期に区分します。
ところでエジプトの場所は頭に思い浮かんでいるでしょうか?念のため地図です。
ウル・ウルク・ラガシュの古代国家が栄え、その後はトルコのアナトリア高原にはヒッタイト、シリアとトルコの境目の辺りにミタンニ、メソポタミア地方南部にはカッシートがいました。
参考:6.メソポタミアの統一と小アジア
エジプトの政治体制は、王が生ける神として行う専制的な神権政治です。
神権政治は神の代理人、もしくは神として政治を行うことで、日本の卑弥呼とは違います。
卑弥呼はシャーマンですから、神の声を聞ける人です。
古代エジプトの場合は、自分自身が神です。
自分は神だから皆従いなさいとするもので独裁体制に近いです。
少数の神官や役人は、国土の所有者である王から土地を与えられますが、住人の大部分は不自由な身分の農民で、生産物への租税と無償労働が課せられました。
古王国
まず最初に繁栄したのは古王国。
第3王朝~第6王朝までをこのように呼びます。
ナイル川下流域の、下(しも)エジプト、メンフィスを中心に栄え、最盛期は第3~4王朝期です。
メンフィスは、第一王朝時代に初代の王である、メネスが建設したと言われています。
メソポタミア地方で言えば、サルゴン一世がアッカド帝国を建国したころと少し重なります。
この頃、強大な王権の象徴として多くのピラミッドが建設されました。
世界最大のクフ王のピラミッド、そしてカフラー王、メンカウラー王のピラミッドを合わせて、3大ピラミッドと呼び、これらは全てギザにあります。現在のカイロの対岸の都市です。
カイロはエジプトの北部。ナイル川の下流、地中海に近い場所です。
エジプトの首都で、アフリカ・アラブ世界では最も人口の多い年です。
ギザはナイル川を挟んでやや南部にあります。
場所を確認しておきましょう。
そして、これがギザの三大ピラミッドです。
よくテレビとかにも登場しますね。
手前からメンカウラー、カフラー、クフです。
真ん中のカフラー王のものが大きく見えますが、台座が上げ底なので奥にあるクフ王が世界最大です。
14世紀以降にヨーロッパ建築がその高さを超えるまで、実に3千年近く世界で最も高い建造物でした。
クフ王は、エジプト第4王朝のファラオで、カフラー王の父です。
クフ王のピラミッドは世界七不思議で唯一現存する建造物で、20年以上の歳月をかけて作られたと言われています。
ヘロドトスの書いた「歴史」によれば、ピラミッド労働などの土木作業に国民を駆り出した暴君とされていますが、近年ではピラミッド建造は失業対策であったとされています。
大建造物であるピラミッドがあるということは、多くの労働力を動員できた、ということになります。
つまり、それだけの権力を持っていた者、王がいたという証拠なのです。
だからピラミッドは権力の象徴であり、それだけ王の権力が強大であったということです。
スフィンクスも古王国時代に建造されたと考えられています。
余談ですが、ギザのピラミッドは砂漠にポツーンとあるわけではなくて、いまはすぐ近くまで市街地が迫っています。
すぐ近くにケンタッキーがあったりして、物議を醸しているみたいです。
中王国
中王国時代の中心地は、メンフィスから上エジプトのテーベに移ります。
前21世紀~前18世紀頃、第11~12王朝期が中王国と呼ばれます。
テーベは中王国、新王国の政治の中心地で現在のルクソールにあたります。
カイロに比べるとだいぶ南に移ったのがわかります。
こちらが上(かみ)エジプトです。
エジプト古王国は第六代王朝で滅び、エジプトは第一中間期と呼ばれる長い混乱の時期を迎えます。
この混乱期を終わらせ、エジプトを再統一したのが第11代の王メンチュへテプ2世です。
テーベに都を移し急速に中央集権国家をつくりますが、各地の有力者の反感を買ってしまい、死後20年あまりで第11王朝は滅び、第12王朝が成立します。
第12王朝の末期にはシリアから遊牧民ヒクソスが侵入し、国内が混乱してしまいます。
ヒクソスはアジア系の遊牧民で、中王国滅亡後には馬と戦車でシリア方面から侵入、デルタ地帯(下エジプトの地中海に近い場所)を支配、第15・16王朝を建国します。
中王国時代にはエジプト古典文学が栄えていたため、現代でも当時の社会を知ることが出来ます。
日本はこのころまだ縄文時代です。農耕民ですらありません。そう考えると凄まじい発展の度合いです。
新王国
エジプト新王国は、前16世紀に興りヒクソスを追放してシリアへと進出します。
第18~20第の王朝で、都は中王国時代と同じテーベです。
18・19代王朝が最盛期で、シリア、パレスチナにおいて、ヒッタイト・ミタンニ・カッシートなどと争いました。
確認しましょう。
覚えていますか?
エジプト側、青がメンフィス(古王国の都)、赤がテーベ(中王国・新王国の都)
メソポタミア側、緑色がヒッタイト、オレンジ色がミタンニ、黄色がカッシートです。
これらの国々がお互いに覇権を争っていたわけです。
アメンホテプ四世
新王国時代は古代エジプト文明が最も栄えた時代で、現代に残る遺産もこの時代の物が多く、また、有名なアメンホテプ4世やツタンカーメンもこの時代のファラオです。
アメンホテプ四世は宗教改革を実施し、その改革によってアマルナ美術が生まれることにも繋がりました。
アメンホテプ四世はツタンカーメンの父親です。別名イクナートン。
アメンホテプ四世の宗教改革
アメンホテプ四世は宗教が政治に介入するのを嫌いました。
そのため、主神アメン・ラーを始めとし、それまで信じられていた神々を全て否定します。
これまでの神々はもう神じゃない、ということです。
神殿も全部破壊、徹底的に宗教勢力を取り除きます。
神をも恐れぬ行為とはまさにこのことですが、これまでの神々は神でも何でも無くなったので怖くありません。
そして、新しい神、【アトン(アテン)】を唯一神としてたたえます。
アマルナ革命
アメンホテプ四世は、先代の王がアメン神を崇拝していたので、アメンホテプ四世として即位しますが、 アトン神崇拝へと改革を行ったので、自らの名前も【アトン神に愛される者】という意味を持つ、イクナートン(イクナアトン)に改名します。
余談ですが、イクナートンは都市名としても存在するので、人としてのイクナートンはアクエンアテンと区別して呼ばれています。
ここでは、イクナートンに統一し呼ぶことにします。
神アトンに祈りを捧げるアメンホテプ4世と家族。
アトンは円盤状で多数の手を持つとされていました。
神様、というと人型を思い浮かべるかも知れませんが、アトンは人型ではありません。
それまでのエジプトは多神教の世界でした。
色々な神がいたのに、これからは唯一アトンのみが神となるのです。
これは大きな変革だったに違いありません。
今まで信じていた神は、もう神じゃなくなり、いきなり新しい神が現れるのですから。
宗教には多神教と一神教のものがありますが、世界初の一神教がこの【アトン教】なのです。
キリスト教やイスラム教も一神教です。
神の名はヤハウェ。キリスト教ではゴッド、イスラム教ではアッラーと呼ばれます。
でも、同じ神様なのです。
日本は宗教色は薄いですが、多神教の国と言えるでしょう。
八百万の神です。学問の神も、自然の神も、動物の神もいます。
ありとあらゆるところに別々の神が存在する、と考えるのが多神教です。
厳密に言えば、アトン神はアメンホテプ4世だけの神で、アメンホテプ4世もまた神として君臨していました。
神権政治です。
ですから民が信仰の対象にしたのは、アメンホテプ4世その人であり、アトン神では無いのです。
アトンはアメンホテプ4世だけが信仰出来る神です。
庶民が「アトン神助けてください!」と言っても意味がありません。
イクナートン様(アメンホテプ4世様)助けてください!と言わないとダメ、ということです。
首都もテーベからアケトアトンに遷都。
これは現在のアマルナと呼ばれる場所です。
これら一連の宗教改革、そして遷都などの出来事を総称して、アマルナ革命とか、アマルナ宗教改革と呼びます。
急激な改革を行ったせいか反対勢力も多く、アメンホテプ4世の死後、アトン神信仰は急速に衰え廃れてしまいます。
ツタンカーメン
厳密に表記すると、トゥト・アンク・アメンといい、紀元前1333年から紀元前1324年頃が在位期間です。
早口で言うとツタンカーメンになります。
日本でトゥト・アンク・アメンなんて言っても発音悪いやつと思われるかも知れませんので、お勧めしません。
さて、ツタンカーメンが生まれたのは、紀元前1342年。
測位が1333年ですから、わずか9歳での即位だったということです。
その上18歳という若さで亡くなっています。
ツタンカーメンとアメンホテプ4世は親子関係で、実はツタンカーメンの前の王は兄でした。
スメンクカーラーという名前ですが、在位期間がわずか4年で支配もアメンホテプ4世と共同統治だったのではないかとされていますが、あまりよくわかっていません。
ツタンカーメンは9歳で即位したのち、再びアメン神信仰とします。
正式名称のトゥト・アンク・アメンもアメン神の似姿という意味です。
だから、名前にアメン神が入ってます。
首都もアマルナからテーベに戻し、アテン神は悪魔だった、としてアテン信仰は完全に廃します。
ツタンカーメンにまつわるミステリー
ツタンカーメンの死因にまつわる話は歴史上のミステリーで色々な題材に使われています。
他殺であるとする説や、事故による骨折からの感染症、はたまたワインに毒を盛られた、などなど。
その中でも有名な説が、臣下である「アイ」による暗殺説。
このアイですが、実はツタンカーメンの次の王なのです。
しかも、ツタンカーメンの妻であったアンケセナーメンを、自分の妻として迎えています。
臣下が王の座が欲しいがためにツタンカーメンを暗殺し、妻を奪った、という話が出てきてもおかしくありません。
しかも、さらに想像をかきたてる事実があります。
ツタンカーメンの墓には花が添えられていたのです。
これがアンケセナーメンによるものだろうとされていて、夫婦仲は良かった、ということになっています。
話としてはますます面白くなります。
未だに謎に包まれたままではありますが、こういった話もある、ということです。
ちなみに別の説として、アイとアンケセナーメンの共謀説もあったりしますが、アイは悪役として描かれることが多いです。
本当のところはわかりませんけどね。
黄金のマスク
ツタンカーメンと言えば黄金のマスクです。
むしろ、黄金のマスクが発見されたからツタンカーメンがここまで有名になりました。
どういうことかと言うと、エジプトには王家の谷と呼ばれる地域があります。
そこには古代エジプトの王が多数葬られているのですが、その多くが盗掘されているのです。
金銀財宝が一緒に埋まっているのですから、数千年もの間放っておかれるわけがありません。
しかし、このツタンカーメンの墓だけは綺麗に残っていたのです。
若干盗掘はされていたものの、ほとんどが綺麗に残されていました。
発見されたのが1922年11月4日のことですから、3000年以上もの間、土に埋もれていたのです。
マスクの発見者ハワード・カーター
ツタンカーメンの墓の発見者はハワード・カーター。
こういった発見はなぜかドラマチックな話がつきものなのです。
この歴史的な快挙も実は、もしかしたらさらに数千年発見されなかったかも知れない、というギリギリのところで発見されました。
ハワード・カーターは考古学者として活動をしていました。
発掘調査は多額の資金が必要です。発掘調査の間はお金を稼げるわけではありません。宝探しみたいなものです。
その為、資金を提供してくれるスポンサーをつけなくてはなりません。
ジョージ・ハーバート(カーナヴォン卿)
そのスポンサーがジョージ・ハーバート。日本ではカーナヴォン卿という名前が一般的です。
超大金持ちで、熱狂的なアマチュアエジプト考古学者でもありました。
ハワード・カーターと知り合ったカーナヴォン卿は、エジプトのデルタ地帯を中心に数多くの実績をあげます。
そして、1915年に王家の谷の発掘を開始、ツタンカーメンの墓に狙いを定めます。
しかし探しても探しても一向に見つかりません。
この頃はすでに、王家の谷は掘り尽くされていると考えられていて、多くの融資家が援助を打ち切っていきました。
その為最後の2年間は、カーナヴォン卿も資産を切り崩して発掘を続けていました。
しかし、さすがにもう終わりにしようと、カーナヴォン卿からハワード・カーターへ発掘打ち切りが告げられます。
6年も掘り続けて何も見つからないわけですから、そりゃもう何も無いと思いますよね普通は。諦めて当然です。
しかし、ここで諦めなかったのがハワード・カーターです。
もし発掘したら全ての名誉をカーナヴォン卿に譲るから、もう1シーズンだけ掘らせて欲しい。
と頼み込みます。そしてその年、1922年11月についに発見に至るのです。
大量の土砂をどかし、それと思われるものを発見したハワード・カーターは、穴の奥底を覗き込みます。
そこには大量の金がありました。
金の壁、金の彫像、ありとあらゆるものが輝いていたのです。
その時、現場に居たカーナヴォン卿は、ハワード・カーターが覗きこむ後ろから声をかけます。
「何か見えるかね?」
「ええ、素晴らしいものが(I see wonderful things)」
ハワード・カーターは、あまりのことにこれだけ言うのがやっとだった、と自伝に書き記しています。
ファラオの呪い
この発掘の話が出ると、必ずと言っていいほど一緒について回るのが【ファラオの呪い】です。
ツタンカーメンの呪いとか、王家の呪い、と呼ばれたりもします。
それは、この発見の翌年にカーナヴォン卿が急死しているからです。
最終的に発掘に携わった人間で生き残ったのはただ一人、ハワード・カーターだけ。
恐ろしい話ですが、実は全くのデタラメで、カーナヴォン卿が急死したことだけが事実です。
しかもカーナヴォン卿が亡くなった年は57歳。
当時の平均寿命が70歳です。
平均に比べれば若くして亡くなっていますが、カーナヴォン卿はそもそも体調が思わしくなかったのです。
そもそもそんな呪いが本当にあるのならば、ハワード・カーターが真っ先に呪われるはずです。
しかしハワード・カーターは64歳まで生き、天寿を全うしたと言えます。
他の発掘者も皆長生きしてますので、呪いは実際にはなかったということでしょう。
ラムセス2世
アメンホテプ、ツタンカーメンに引けを取らない有名な王がこのラムセス2世です。
ラムセス2世は古代エジプト第19王朝の王で、ラメス2世と呼ばれることもあります。
名前の由来は、【太陽神・ラー】によって生まれたもの、という意味で、「ラー・メス・シス」のギリシア語読みです。
この王は絶大な人気を誇っていて、エジプトにはラムセスストリートという通りがあったり、カイロ中央の駅の名前がラムセス駅という名前だったりします。
なんとミイラも残っています。
身長は183センチ。今なお、生けるミイラとして、国外搬送の際はパスポートが発行されます。
職業は「ファラオ」最も偉大なファラオであり、建築物を多く残した建築王でした。
その中でもアブ・シンベル神殿と呼ばれるものが有名で、移設された後世界遺産に指定されています。
先王セティ1世より王位を継ぎ、24歳で即位。
90歳までの66年間、エジプトを統治しました。
統治の前半はヒッタイトとの勢力争いに費やされ、5年目の紀元前1274年にはヒッタイトと戦います。
これがカデシュの戦いです。
メソポタミアのところでも扱っていますので、ヒッタイト側からみたカデシュの戦いは、以下を参考に。
参考:6.メソポタミアの統一と小アジア
ラムセス2世とカデシュの戦い
カデシュの戦いは、エジプトVSヒッタイトの戦いです。
ヒッタイト側の王はムワタリ。拡大政策に積極的な王ですので戦争ばっかりしてます。
戦いのきっかけは、ラムセス2世がヒッタイトの属国であるアムル王国を奪ったこと。
つまり、ヒッタイト側から見れば、エジプトのラムセス2世に取られたものを取り返そうとしたに過ぎません。
戦いはじめの段階では、エジプト側ラムセス2世が有利に進めます。
スパイを捕まえて、ヒッタイト軍はアレッポにいるとの情報をつかみます。
アレッポはカデシュの北方です。カデシュの場所と合わせて地図で確認しておきましょう。
地図は大体です。実際はこんなに大きな地域を指しませんので、場所だけ確認。
ヒッタイトの勢力はどの辺りだったかわかりますか?
ついでに、メソポタミア地方の勢力図も貼っておきますね。
エジプト側は、アレッポにヒッタイトがいるならいまのうちにカデシュを陥落してしまおう、という作戦を立てます。
しかしこれがニセの情報だったのです。
実はヒッタイト軍はカデシュにある丘の背後に潜んでいたのです。
戦力はそれほど差はなかったのですが、一刻も早くカデシュに着きたいが為に、エジプト軍はかなりの無理をして急ぎました。
そのため、エジプト軍の各軍団が縦に長く伸び、離れてしまっていたのです。
エジプト軍には4軍団あり、それぞれ【プタハ】,【セト】,【アメン】,【ラー】という神の名を冠した集団にわかれていました。
本来はまとまっている軍団ですが、急いで来たためにバラバラの状態です。
そこをヒッタイトは見逃しません。まずはラー軍団がやられます。壊滅です。
そしてその勢いのまま、アメン軍団にも襲い掛かります。襲いかかったのは戦車2500両。
戦車VS戦車で数が同じくらいならまだしも、エジプト一個軍団に対し、ヒッタイトの全戦車が襲い掛かるわけですからたまったものではありません。
しかし、そこに現れたのがアムル王国からの援軍。
この援軍により態勢を整え直すことが出来たエジプト軍は、ラムセス2世の活躍もあり、カデシュからヒッタイト軍を追い払います。
カデシュの戦いは、この戦いだけではなく、この前後の戦いも含めて呼称します。
実際には、「カデシュ」での戦いはエジプト軍の勝利といえるかも知れませんが、パレスチナ地域からヒッタイト軍を追い払うことは出来ず、長年にらみ合いが続きました。
最終的には双方で平和条約を結びます。
これが世界最古の平和条約です。
ラムセス2世はヒッタイトの王女を王妃として迎え、自らの勝利をアブ・シンベル神殿やエジプト神殿の壁画に残しました。
そのため、こうして当時の様子を振り返ることが出来るわけです。
愛妻家 ラムセス2世
ラムセス2世は非常に子だくさんな王としても知られています。
何人でしょう?
いまあなたが想像した数をはるかに超える数だと思います。
その数、180人! 111人の息子と69人の娘がいたと言われています。
当然1人の妻ではありません。
しかも多くが養子であって、王子の称号を与えただけ、と考えられますがそれでも自分の子供が180人というのはすごい数です。
中にはラムセス2世と親子婚をした娘もいました。
その中でも有名なのが第1王妃ネフェルタリ。
深く愛情を注がれた王妃で、王女と王妃を葬ったとされるエジプトの墳墓群(王家の谷)にこの王妃の墓があるのですが、ネフェルタリ王妃の物が、最も壮麗な墓として有名です。
ラムセス2世の妻 第1王妃ネフェルタリ
ネフェルタリは、ラムセス2世に深い愛情を注がれ、その地位も他の后に比べ遥かに高いものでした。
これは政略では無く、純粋な愛情であったとされています。
ネフェルタリの墓に刻まれている、ラムサス2世の詩です(Wikipediaより引用)
余の愛する者はたゞひとりのみ。何者も余が妃に匹敵する者はなし。生きてあるとき、かの人は至高の美を持つ女人であつた。去りて、しかして余の魂を遙か遠くに奪ひ去りしが故
ネフェルタリの美しさは伝説的であったとされ、現在でも愛と美を具現化した王妃として知られています。
アメン神の神后の称号「ムト」(神の妻である、という称号)を持っていました。
古代の壁画を見ても、ラムセス2世と同じ大きさで描かれた后はネフェルタリだけです。
他の后はラムセス2世の膝くらいの大きさで描かれています。
ネフェルタリが特別なだけでこの構図が普通です。
ラムセス2世はネフェルタリの為に、神殿も建造しています。アブシンベル神殿です。
大小の神殿からなるアブシンベル神殿のうち、アブシンベル小神殿がネフェルタリの為に建造されたものとされています。
アブ・シンベル小神殿
アマルナ美術
アメンホテプ4世の時代の芸術は、アマルナ美術と呼ばれます。
古王国以降の固定化した様式に対して、古代エジプトには珍しい自由で写実的な様式を特徴としました。
これも、アメンホテプ4世による信仰改革の影響によるものです。
古い伝統を打破して、それにとらわれない美術様式を生み出そうという気持ちの表れです。
アマルナ、という呼び名はアメンホテプ4世が建国したアケトアトンの現代での呼び名です。
テル・エル・アマルナと呼ぶことが多いです。
実際はテル・エル・アマルナという呼び名は正しく無いようですが、用語集にテル・エル・アマルナとあるので、受験生はこれで覚えれば問題無しです。
19世紀末にはこのアマルナの地から、約400枚の粘土板に楔形文字で記された外交文書が見つかました。
アマルナ文書と呼ばれるこれらの資料は、歴史上重要な資料と位置づけられています。
古代エジプト人の宗教
エジプト人の宗教は太陽神ラーを中心とする多神教です。
新王国時代には、中王国時代の首都テーベの守護神であったアメン(アモン)と結びつき、アモン=ラーとして広く信仰されるようになります。
アメンホテプ4世が信仰したのは、アトン神でした。
多神教とは逆の考え、一神教である、という点を覚えておくと良いと思います。
ミイラが作られた理由
どうしてミイラが作られたか考えたことはありますか?
死んでいる人間に包帯を巻き、棺に入れて保管するというのは、現代の風習とはことなります。
そもそもなぜ死んだ人間を丁重に扱っていたのか。
ここに、古代エジプトの霊魂不滅の信仰感が表れているのです。
古代エジプト人は霊魂の不滅と死後の世界を信じていました。
死んでしまっても魂は滅びない。
だから、体も永久に保存しようと考えました。
■ミイラの作り方を見てみましょう。
1,死体から心臓以外の内臓や脳を取り出す
2,炭酸ナトリウムに漬け込んで脂肪分を落とす
3,布で巻き棺に収める。
この3ステップでミイラが作られます。
この時代は心臓に全てが宿ると思われていたので、脳みそはどうでも良かったのですね。
聞いたことがあるかも知れませんが、脳みそを掻きだす時は鼻から長いスプーンのようなものを突っ込んで、脳を掻き出します。
この話を聞くと、いつも鼻の上から頭のあたりがムズムズするのですが。。。
体の脂肪を落とすのも、油は腐るからです。
内臓を取り出すのも腐敗を防ぐため。
この様に優れた保存技術と、乾燥した風土もありミイラは現代まで残っているのです。
神聖文字と民用文字
古代エジプト人は様々な記録を残しています。
碑文や石室・石棺などに刻まれる象形文字を神聖文字(ヒエログリフ)と呼び、これは絵文字から発達した最初のエジプト文字です。
さらに、神官文字(ヒエラティック)、民用文字(デモティック)という文字がありました。
神官文字は神聖文字を簡略化したもので、宗教書や公文書、文学作品に用いられ、民用文字は最も簡略化された文字で日常生活において使われていました。
パピルスと呼ばれる古代エジプトの【紙】には主に民用文字が書かれています。
パピルスとは、主にナイル川流域の湿地帯に生えている背の高い草でカヤツリ草という大型の多年生植物です。
このパピルスの茎を縦に裂いて、開いたものを数枚ずつ直角に貼りあわせて、圧縮し、乾燥させたものがパピルス紙です。
正確には【紙】とは言えませんが、紙にかなり近いものです。
冥界への案内書 死者の書
パピルス紙の話と一緒に登場するのが死者の書、と呼ばれるもの。
これらの多くは、パピルス紙に民用文字(デモティック)で書かれていました。
死者の書はミイラと同様に、霊魂不滅信仰の象徴です。
ミイラと一緒に棺に収められ、冥界の王【オシリス】の裁きを受けるために、死者の生前の善行や呪文を記録し副葬品として入れられた文書です。
オシリス、という名前はゲームや漫画でも使われることがあるので聞いたことがあると思います。
古代エジプト人の思想が由来になっているのです。
アヌビス神というのも聞いたことがあると思いますが、アヌビスもこの頃の話です。
死者の書。
冥界の王であり死者の神であるオシリスの前で、山犬の頭をしたアヌビス神が、死者の心臓と真理の羽根を天秤にかけています。
審査の結果、無罪となれば人間として再生出来ると考えられていました。
古代エジプト人の宗教観や来世観、道徳観を表す貴重な資料です。
ヒエログリフの解読者 シャンポリオン
神聖文字(ヒエログリフ)は、墓石や石棺、碑文などで刻まれることが多いです。
そもそも【ヒエログリフ】という言葉は、メキシコ語のヒエログリピュカ(聖なる彫り物)に由来し、碑文として彫られていたため、ヒエログリフと名がついているのです。
ヒエログリフの話と切っても切れないのが、シャンポリオンです。
正確には、ジャン=フランソワ=シャンポリンといいます。
1790年にフランスに生まれたエジプト学者で1822年ロゼッタストーンの解読に成功しました。
ヒエログリフの解読は長年研究されていたのですが、ずっと未解読のままでした。
これを解読したのがシャンポリオンです。
シャンポリオンは少年時代から語学に非凡な才能を見せ、9歳でラテン語を話したと言います。
20歳の時には、ギリシア語、ヘブライ語、アムハラ語、サンスクリット語、アヴェスタ語、パフラヴィー語、アラビア語、シリア語、ペルシア語、中国語、を習得。
1822年にパリ学士院にてヒエログリフの解読結果を発表します。
この解読のキッカケとなったのが、ロゼッタストーンです。
ロゼッタストーンは、ナポレオンがエジプト遠征をした際に発見したもので、プトレマイオス5世を称える内容が記されています。
上から順に、神聖文字、民用文字、ギリシア文字の3書体で刻まれています。
ギリシア文字そのものは読むことが出来たので、このギリシア文字を元に、他の言語も解読をすることが出来ました。
エジプトのロゼッタで見つかったのでロゼッタストーンと呼びますが、いまはイギリスの大英博物館で保管されています。
エジプトへ戻そう、という運動もあるようです。
測地術の発達と太陽暦
エジプトはナイルの賜物、でしたね。
ナイル川の氾濫により、土地に栄養が運ばれ作物が豊富に取れ人々が生活できたのです。
このナイルの氾濫と測地術の発達には大いに関係があります。
測地術、とは正確にものを計測する技術のことです。
現代では1メートルはどのくらいの長さか決まっていますが、この時代には元となる長さや量がありません。
あなたが想像する1メートルと、私が想像する1メートルは、現代ではそんなに変わらないかも知れません。
しかしこの頃は、そんな長さの概念すら無いのです。
こうした概念が無いため、洪水の後に問題が起こります。
自分の土地がどのくらいの長さだったのか、広さはどのくらいだったのか、どこからどの程度測った場所が自分の土地なのか。全部わからなくなるのです。
その為、土地の境目を巡って争いが起こります。
自分の土地が狭くなったり、好条件の場所から変わってしまったりしたら嫌ですよね。
そこで測地術が発達するのです。
幾何学の元になった測地術
測地術とは具体的にどういうものでしょうか?
重要なのが、正確な直角三角形を作ること。
縄が一本あれば正確な直角を作ることが出来ます。
ここで使うのが三平方の定理です。数学が苦手だという人でも少し聞いて下さい。
直角の両隣の辺の二乗は、直角に向かい合う辺の二乗と等しい、というやつです。
ピタゴラスの定理とも呼ばれています。図で示したのが以下。
これを知っていれば、同じ長さがいつでも測れるのです。
洪水でも流されない木や岩はありますから、そこを起点にしてこの定理を使えば同じ長さが測れます。
これらの測地術はギリシアの幾何学の元となった考え方とされています。
ピタゴラスが発見した定理を古代エジプト人が実践で使用していた、というのは驚きですね。
道路で三脚を立てて覗きこんでいる人を見たことがありませんか?実はあれ、同じ原理です。
太陽暦
太陽暦は太陽を元にした暦のことです。
私たちは1年を365日と定義していますが、これは地球から見た時に、太陽が365日で同じ位置に戻ってくること元にしています。
実際は地球が太陽の周りを回っている、ということはご存知の通りです。
(正確には365日と5時間48分46秒で、うるう年で調整します)
この暦も、ナイル川の氾濫の時期を知るために発達するのです。
ナイル川は毎年決まった時期(雨季)に氾濫を起こします。
ですからこの時期を知ることが出来れば、氾濫に備えることが出来ます。
現代ではカレンダーがありますが、当時はそうもいきません。
ではどうするか。
古代エジプト人は、シリウスという星を観察してその時期を知ることになります。
あれ?太陽暦だから、太陽じゃないの?と思うかも知れません。実際はシリウスの観察です。
厳密に言えばシリウス星暦、といえます。
でもテストでシリウス星暦と書いたら多分ダメです。
シリウスは、太陽を除けば地球上から見える最も明るい星です。
このシリウスが7月頃、一際輝く時があります。明け方の太陽が出る直前です。
これをヒライアカル・ライジング(heliacal rising)と呼びますが、これを目安にしていました。
(ヒライアカル・ライジングは他の星でも起きる現象です)
シリウスの動きを追ってはいましたが、太陽の影響をシリウスを見ることによって観測していたので、結果として太陽の動きを追いかけているのと同じ事です。
この暦を元にユリウス暦が作られ、それを元に現代のグレゴリオ暦が作られています。
当時使われていたこの暦法が現代の暦の祖先、というわけです。
実は、グレゴリオ暦以外にも太陽暦はたくさんあって、有名なのが先述したユリウス暦。
紀元前45年から1582年まで西欧諸国で使用されていました。
グレゴリオ暦の方が使用期間は短いのです。新参者なのです。
さらに、フランス革命暦やスウェーデン暦、ソビエト連邦暦などもあります。
実は日本でも独自の暦が使われています。あなたも自然と使っているはずです。
和暦と呼ばれるものです。
明治、大正、昭和、平成、などの元号は日本独自の暦です。
西暦と併用ではありますが、海外では通じない日本だけの物です。
イスラム世界ではヒジュラ暦が公式の暦ですし、ネパール国内ではヴィクラム暦という暦が公式です。
どちらも太陰暦で月の動きを元にしています。私達が生きている暦とは違う時間の流れです。
まとめ
長くなってしまったので、簡単にまとめます。
古代エジプトはナイル川の氾濫により、土地が痩せることがなかったため定住することが出来、灌漑農業が発達。
灌漑作業には協力体制が必要な為、統治国家ができた。
統治者は王(ファラオ)と呼ばれ、神権政治による統治を行った。
神権政治とは王自身が神、もしくは神の代理人である政治体制のこと
古王国時代はナイル川下流下エジプトのメンフィスを中心に栄え、王の権力の象徴としてピラミッドが建造された。
中王国時代は上エジプトテーベを中心に栄え、シリアからヒクソスが侵入し国内は混乱する。
新王国時代はヒクソスを追放、メソポタミア地方のヒッタイト・ミタンニ・カッシートと争う。
新王国時代は最もエジプト文明が栄え、アメンホテプ4世のアトン信仰による宗教改革でアマルナ美術が生まれる。
ラムセス2世がヒッタイト軍とカデシュの戦いで争い、世界最古の平和条約を結ぶ。
古代エジプト人は太陽神ラーを信仰する多神教。
神聖文字や民用文字により記録が残され、死者の書はミイラとともにエジプト人の宗教観や来世観を表す貴重な資料である。
測地術や太陽暦も発達し、後の幾何学、ユリウス暦の元となった。