アッカド帝国の成立
シュメール都市国家を前24世紀に征服したアッカド人はメソポタミアやシリアの都市国家を統一して広大な領域国家を作りました。メソポタミア最初の統一国家です。
ちゃんと地図で確認しておきましょう。
メソポタミアがどの辺りか頭にすぐ出てきますか?ほぼイラクと同じ場所でしたね。
アッカド帝国はサルゴン王に始まり、5代にわたって140年続きます。
第4代の王ナラム=シンの時代に大規模な遠征により、最大版図を獲得します。
しかし国が大きくなると、それだけ統治は難しくなります。
国が滅びるパターンの一つです。後世の国でもよく見られます。
望まない戦争でも疲弊する
ならば、国を大きくしなければいいじゃないか、と思うかも知れません。
そういう選択肢もありでしょう。実際にそういう国もたくさんありました。
領土拡大のための戦争はせず、のんびりと暮らしていければいい、そう思うのも当然です。
しかし、こちらから攻めることをしなくても、他の国から攻められることもあるのです。
一般的には、攻める側より、守る側が有利です。
守る側はホームタウンで戦っているわけで、地の利もありますし、食料なども豊富です。
ですから、敵を撃退することは出来ます。
ところが、敵を撃退するだけですので、何か褒美があるかというとそんなことはありません。
なぜなら、勝っても(守りぬいても)土地が手に入るわけでは無いからです。
それどころか、戦いで若者が死んでしまったり、土地が荒れたり、食料の消費も激しくなります。
つまり、平和に暮らすために守りに徹していても、なかなかそれは叶わないのです。
統治の為に戦争をする
これとは逆に、侵略戦争であれば勝利によって土地が増え、多くの人民を奴隷に出来ます。
それだけ労働力も増え、国力は高くなります。
しかし、いくら戦争で勝って自分の国になったからと言っても、結局は敵同士だったわけです。
自分の国のリーダーを殺した人間を、心から尊敬したり、国に対して愛情を持ったりはしないでしょう。
常に反乱の危険性があるということです。
戦争で勝ったとしても、全体を統治するのはなかなかに難しいということです。
これらを統治し、高いカリスマ性を発揮したのが、歴史上の英雄たちというわけです。
仮にうまく統治出来たとしても、内部反乱の危険性は常に残っています。
いつ民衆が蜂起してくるかわかったもんじゃありません。
こういった反乱を抑えるためには、共通の敵が必要なのです。
つまり対外戦争です。内部を統治するために共通の敵を見出し、戦争を仕掛ける、というわけです。
例えば、サッカーワールドカップやオリンピックでは日本選手(チーム)を応援しますよね。
相手国は日本人共通の敵なのです。
普段はそれぞれのチームの応援で火花を散らしていても、この時ばかりは全員が日本チームを応援します。
これと同じことです。共通の敵を作り出し、それに向かうことで結束も強まります。
国を統治するためには、対外戦争が一番手っ取り早い手段だったというわけです。
守っていても、他から攻められる危険がある→ならば攻めよう。
侵略したら、統治のために共通の敵が必要→ならば攻めよう。
結局のところ、戦争で勝ち続けるしか平和を維持出来ないのです。
だから、戦争は無くなりませんでした。
現代社会はどうなのか
現代社会は「お互いに戦争しないようにしましょう」と条約(約束)を結んでいるだけなのです。
第二次世界大戦後の話です。ちなみに第一次世界大戦後も同じような条約を結んでいました。
結局は条約が守られず、第二次世界大戦が始まってしまいました。
世界を見れば、条約を結んでいない国同士が未だに戦争をしています。
国を統治する、というのは現代社会においても難しいことなのです。
自らを神格化した王「ナラム=シン」
話をナラム=シンに戻しましょう。
ナラム=シンは最大版図を獲得したくらいの王ですから、自らを「神」とします。
アッカド帝国の王は初代から、サルゴン、二代目リムシュ、三代目マニシュトゥシュと続きますが、彼らは代々「全土(世界)の王」という呼び名を使っていました。
四代目ナラム=シンも同様の呼び名を使っていたのですが、この呼び名では満足いかなかったらしく、新たな呼び名を使い出します。
この呼名が「四方領域(しほうりょういき)の王」または、「四方世界の王」。
これは文献の解釈の違いですので、どちらも間違いではありません。
支配する世界が広がったので、全土の王、では満足いかなかったらしく、この呼称を使い始めたみたいです。
そして最終的には、自分がアッカドの神々に依頼されて「神」になった、として自らを神格化します。
神にしかつけない限定符「ディンギル」というのを文章にも残すように命じ、自らを指し示すときはディンギルを用いるようにします。「ディンギル」は発音しません。神を表す記号です。
ちょっとわかりづらいかも知れないので、例えばこちら。
これを読んで下さい、と言われても読めませんよね。記号だからです。
ちなみにこれは、銀行を表す記号です。
地図上にこのマークがあったら銀行がある、ということです。
読んだり発音したりはしませんが、地図上にこれを見たら銀行だ、とわかるわけです。
これと同じように、アッカド帝国第四代の王ナラム=シンは、自分の文章に「ディンギル」を残したのです。
気になりますよね、ディンギル。神を示す記号。それがこちら。
実はディンギルも一つではなく、色々と種類がありました。
ちなみに、こちらがシュメールで使われていたディンギル。
まあ、これを読んで下さいと言われても、読めないので発音のしようが無いのですが、これを使うことが許されるのは神だけという特別な記号です。
それにしても神々に依頼されて、というところが面白い。
そしてこの話をみんなが信じてしまう、というところが実に不思議ではあります。
宗教に近い考えですので、この時代は宗教的な統治がなされていたのでしょう。
これがナラム=シンです。ツノをつけた冠が神格化の証。
このナラム=シンによる王の神格化は、以後のメソポタミア王に引き継がれていきます。
アッカド帝国の滅亡
ナラム=シンの死後、息子のシャル・カリ・シャッリが国を引き継ぎます。
名前の意味は「全ての王」。こういうネーミングがいちいちカッコいいです。
ナラム=シンによって、王位は神格化されていましたが、シャル・カリ・シャッリその威厳を使って統治することはままならず、内部反乱や敵の侵入を鎮圧するために、生涯追われた王でした。
最期は粘土板で撲殺され暗殺。
ここに、アッカド王国の統一王朝は終わりを告げます。
バビロン第一王朝
アッカド帝国が滅びると、セム語系のアムル人がバビロン第一王朝をおこします。
これが古バビロニア王国です。
前19世紀初め頃、メソポタミアに侵入したアムル人がバビロンを都として建設した王国で、前1894頃~前1595頃まで続きました。
最終的には前16世紀頃にヒッタイトに滅ぼされますが、かなり息の長い王朝です。
バビロン第一王朝の都バビロンは、ユーフラテス川中流域のあたりです。
まずは場所を確認しておきましょう。大体で大丈夫です。
バグダッドの南にある、という感じです。
世界史が苦手という人はイラクがどのあたりか、というのが恐らくわからないと思います。
これがなんとなく場所がわかるだけで、だいぶ理解度が違ってきます。
このバビロンは、メソポタミア地方の中心地でアッカド語で「神の門」という意味があります。
守護神はマルドゥク。4つの耳と4つの目を持つ神様で、他の神の2倍の力を持つとされています。
古代メソポタミアの都市には都市ごとに守護神がいて、それを祀るためにジッグラトが建設されていたのです。
ジッグラトは神殿のことですね。
これがマルドゥクです。他にも様々な神が祀られていました。
ちなみに、マルドゥクは神々の中でも最も背が高く、他の神の2倍の力を持っています。
なんともくすぐられる設定です。
バビロンに関わる話は、バベルの塔や世界七不思議の空中庭園など、面白い話がたくさんありますので少し紹介しましょう。
世界七不思議-バビロンの空中庭園
バビロンの空中庭園とは、世界七不思議の一つとされていて、空中に浮かんでいたとされる庭園です。
これがその様子を想像して16世紀に描かれた絵です。これが空中に浮かんでいた、というのだから凄い話です。
この設定、何かを思い出しませんか?
空中に浮かんでいる古代の庭園。そう、天空の城ラピュタですね。
ラピュタには、バビロンからヒントを得ているんだろうな、と思う描写がたくさんあります。
こういうことを知っていると、より映画も楽しめるのです。
世界七不思議というのは、現代では実現不可能な技術で、どうしてこれが存在していたのかわからない。
というようなニュアンスで語られることが多いのですが、実はこれ、日本語に訳した時のニュアンスの違いから生まれたものなのです。
本来は、「必見のもの」というような意味。
この空中庭園が存在していたかどうかは真偽不明ですが、要は「一度は見ておきたい世界の絶景」的な感じです。
時代と共に七不思議は変わります。
現代でも、「世界の絶景」は色々ありますし、時代とともに変わりますよね。
これと同じことです。
古代の七不思議
ちなみに、古代の七不思議は以下の通り。
ピラミッド以外は、現代では原型を留めてなかったりすでに存在しないのでイメージ図です(Wikipediaより)
1.ギザの大ピラミッド
2.バビロンの空中庭園
3.ハリカルナッソスのマウソロス霊廟
4.エフェソスのアルテミス神殿
5.オリンピアのゼウス像
6.ロードス島の巨像
7.アレクサンドリアの大灯台
中世七不思議
これが中世になるとがらっと変わります。
1.ローマのコロッセウム
2.アレクサンドリアのカタコンベ
3.万里の長城
4.ストーンヘンジ
5.ピサの斜塔
6.イスタンブルの聖ソフィア大聖堂
7.南京の陶塔
現存せず。イメージ図も無し。
南京の陶塔以外は現存してます。
古代は地中海周辺だけでしたが、この時代になると中国やイギリスの物も入っています。
これが何を意味するかというと、世界が広がったということです。
現代の世界七不思議
そして、現代の七不思議は2007年7月7日にスイスの「新世界七不思議財団」が選定しました。
それぞれの七不思議の場所です。
対象が世界中に広がったのがわかりますね。
これまでは何も考えずに見ていた七不思議も、歴史の変遷を辿ってみると、これだけでも世界がどのように変化したのかがわかるというわけです。
1.イタリア・ローマの古代競技場コロッセオ
2.ペルーのインカ帝国遺跡マチュ・ピチュ
3.万里の長城
4.インドの廟堂タージ・マハル
5.ヨルダンの古代都市遺跡群ペトラ
6.ブラジル・リオ・デ・ジャネイロのコルコバードのキリスト像
7.メキシコのマヤ遺跡チチェン・イッツァ
日本の清水寺なども候補に上がったのですが、残念ながら落選してしまいました。
ここにあげた例も一般的なもので、選定団体や時代が変われば違ったものになりますし、これ以外にも自然七不思議とか、七不思議に次ぐ、世界八番目の不思議、など色々とあります。
ハンムラビ王とハンムラビ法典
それでは話を戻しましょう。バビロン第一王朝の話でした。
バビロン第一王朝で有名な王と言えば、ハンムラビ王。
そしてハンムラビ法典。
歴史があまり得意でなくても、次の言葉は聞いたことがあるかと思います。
「目には目を、歯には歯を」
これは、ハンムラビ法典で定められた復讐法という法律です。
ハンムラビ法典は全282条、楔形文字で記されています。

くさび形文字で書かれたハンムラビ法典
ハンムラビ王はバビロン第一王朝の第6代目の王です。
全メソポタミアを統一し、シュメール法を継承したハンムラビ法典によって統治を行なっていました。
内容を一部抜粋しましたので、見てみましょう。
1条:人がもし他人を死刑に値すると告訴しても、これを立証しえないときは告訴人は死刑
53条:自己の堤防を強固することを怠り、他の耕地に迷惑をかけたら損害賠償すること
195条:子が父を打った時はその手を切られる
196条:他人の目をつぶした者はその目をつぶされる
199条:他人の奴隷の目をつぶしたり骨を折ったりした者はその奴隷の値の半分を支払う
というような内容です、196条が有名な「目には目を、歯には歯を」の部分ですね。
復讐法の原則。
同害報復、つまり、やられた分だけやり返していい法律、とされていますが、実際には199条を見ても分かる通り、身分によって刑罰差が存在しました。
ハンムラビ法典制定の意義
ハンムラビ法典は、現存する法典では世界で2番目に古い法典です(世界最古はウル・ナンム法典で、さらに350年も古い!)。
その制定の意義は、「報復を認める」ということではなく、むしろ、無駄な争いを防ぐということです。
罪を犯した場合、どのような罰が与えられるのか、を定めることで報復合戦を防ぐことが出来ます。
なぜこのような法律が定められたのか。
古バビロニア王国は、多様な人種が混在する社会でした。
人種が違えば、文化も違います。
それぞれの文化において、刑罰の与え方、罪の大きさも違ってきます。
しかし、それでは不公平が生じることもありますし、結局は刑罰を与えるものの裁量次第ということになってしまいます。
これらの不公平を無くし統治するには、法律が不可欠であったわけです。
さらに、ハンムラビ法典では法律の原点とされる考え方が見られます。
それが「弱者救済」の精神です。
法典のあと書きに、以下の様な一節があります。
「強者が弱者を虐げないように、正義が孤児と寡婦とに授けられるように」
この弱者救済の考え方は、現代の法律の基本理念でもあります。
(寡婦というのは、夫に先立たれた妻のことです)
完全に公平であったか、というとそうとは言い切れません。
奴隷の刑罰が重かったり、身分によって差はありました。
しかし、人種差別や宗教差別の条文は見られず、司法の歴史上非常に価値が高いとされています。
ハンムラビ王の功績
ハンムラビ王は法典だけではなく運河の大工事を行い、治水・灌漑を進めました。
この事業によりバビロンは改良され、多くの人々が暮らせるようになったのです。
最終的には、メソポタミア全土を手中に治めるまでになります。
しかし、ハンムラビ王の死後、古バビロニア王国は急速に衰退し滅亡へと向かいます。
バビロン第一王朝の滅亡
ハンムラビ王の時代に栄えた文明は、周辺の諸民族にもおよび、やがて彼らはその富を求めて移住と侵入を繰り返します。
そして、鉄製武器を使用するヒッタイトが、メソポタミアに侵入し、バビロン第一王朝を滅ぼします。これが前16世紀初め頃です。
鉄製武器を使用したヒッタイト、馬術に長けたミタンニ、バビロン第三王朝をおこしたカッシート。
これらの国がこの頃の主要国です。順番に見てみましょう。
鉄製武器を使用したヒッタイト
ヒッタイト人はインド=ヨーロッパ語族系民族で、前17世紀なかば頃、小アジアでハットゥシャを都として王国を建国しました。
小アジアというのはアナトリアのことです。
アナトリアがどこかというのは非常に曖昧でして、トルコのアジア側だと覚えておけばいいと思います。
トルコは西洋と東洋の交差点、と呼ばれることもあり、歴史的にも非常に重要な地域です。
国境もアンカラ条約で一応決まりはしましたが、トルコ国内でもトルコ人が主要でない地域があったり、色々複雑な歴史を抱えています。
日本は周りを海に囲まれているので、国境や民族は割りとクッキリしていますが、陸続きの国、特に西洋から西アジアにかけてはこういった曖昧なところも多いです。
都のハットゥシャは、現在のボアズキョイです。首都アンカラの東側。
ヒッタイトは前16世紀初め、バビロン第一王朝を滅ぼしその後ミタンニをも破り、さらにはシリアに進出し、エジプトと争い、前14世紀に最盛期を迎えます。
以下が、最盛期のヒッタイトの最大勢力図です。緑はエジプトの領域
馬と馬車を駆使して、アナトリア中央部、シリア南西部、そしてウガリット、メソポタミア北部を支配し、強大な国を築きましたが、前12世紀初めに、海の民の侵入によって滅亡してしまいます。
馬術に長けたミタンニ
ミタンニ王国は北メソポタミアからシリアに領土を広げた王国です。
インド=ヨーロッパ語族を支配階級としましたが、住民の大部分はフルリ人と呼ばれる人々で、陶芸、冶金術(金属加工術)馬の扱いに長けていました。場所を確認します。
トルコとシリアの境のあたり。大体どのあたりか押さえるのが大事。
ミタンニ王国は前15世紀にはエジプト・ヒッタイトと並び繁栄しましたが、前14世紀にヒッタイトに滅ぼされます。
ヒッタイトの馬術はフルリ人から導入されたと考えられています。
バビロニアの支配者カッシート
カッシートはザグロス山岳地帯から南メソポタミアに侵入し、バビロン第三王朝をおこします。
バビロン第二王朝は何だったかというと、海の国第一王朝と呼ばれた王朝で、カッシートに滅ぼされるまで11代に渡り存続しました。
カッシート人の建国したバビロン第三王朝は、バビロニアの歴史上最も長く続いた王朝で約400年もの間バビロニアを支配します。
ちなみにバビロン王朝は第十王朝まであります。
場所を確認しておきましょう。メソポタミアの場所、覚えてますか?
現在のイラクのあたりでした。ここの南部を支配したのがカッシート。
前12世紀にエラム人に滅ぼされるまで存続しました。
諸王国の並立と混乱
前15~14世紀のオリエント世界は、ヒッタイト、ミタンニ、カッシート、さらにエジブトの新王国も含め、諸王国が並立する複雑な政治状況となりました。
この後数世紀の間、混乱が続くこととなります。地図でまとめて見てみましょう。
北部緑がヒッタイト、中部オレンジがミタンニ、東南部黄色がカッシートです。
東地中海の南側にはエジプトがあります。これらの国が覇権を争っていたわけです。
日本の戦国時代のようなものですね。
カデシュの戦い
前1274年にシリアのオロンテス川で起きた、ヒッタイトと古代エジプトの戦いです。
歴史上初の公式な軍事記録に残った戦いとされていて、成文化(文章に残された)された平和条約が残っている戦いでもあります。
ヒッタイト帝国の司令官はムワタリ、古代エジプト軍司令官はラムセス2世。
この戦いの様子を少し見てみましょう。
■ヒッタイト軍の戦力
歩兵:約20,000人 戦車:約3,000両。
■対する古代エジプト軍の戦力は
歩兵:約16,000人 戦車:約2,000両
戦争のキッカケは、古代エジプト軍がシリアに侵攻し、ヒッタイトの属国であるアムルを奪ったことにあります。
ヒッタイトは奪われたアムルの地を奪還しようと戦争が勃発。
最初はヒッタイト軍優勢のうちに戦いが進みましたが、ラムセス2世も敗北必至の状態から勢いを盛り返し、両軍はこう着状態に。
ヒッタイトのムワタリから停戦を申し入れ、古代エジプト軍ラムセス2世はこれを承諾。
これでカデシュの戦いは終わりました。
両軍ともに勝利宣言をしたものの、事実上はヒッタイト軍の勝利です。
なぜなら、被害は古代エジプト側が大きく、ヒッタイト軍は軽微。
さらに当初の目的であったアムルの奪還にも成功しています。
そしてこの戦争では平和条約が結ばれました。
文章で残っている平和条約で、世界で最も古い条約です。
粘土板に刻まれた平和条約の抜粋(Wikipediaより)
古の時より、エジプトの偉大なる主とヒッタイトの偉大なる王に関し、神々は条約によってそれらの間に戦争を起こさせなかった。
ところが、我が兄、ヒッタイト の偉大なる王、ムワタリの時代、エジプトの偉大な主と戦ったが、しかし、今日この日より、見よ、ヒッタイトの偉大なる王、ハットゥシリは、エジプトとヒッタイトのために、ラー神とセト神が作った、恒久的に戦いを起こさせないための条約に同意する。
――我々の平和と友好関係は永久に守られるであろう。―― ヒッタイトの子とその子孫は偉大なる主の子とその子孫の間も平和であろう。なぜなら、彼らも平和と友好関係を守って生きるからである。
要約すると、
古来の神々は条約によって戦いは起こさなかった。
子孫である我々も、条約を守って戦争を起こさず平和に友好関係を築きましょう。
という感じです。
ヒッタイト王 ムワタリ
カデシュの戦いでヒッタイト軍を率いたムワタリは、父親から王位を継ぎヒッタイトの王となりました。
祖父の代より続く、シリア拡大政策を継承し領土の拡大を狙っていました。
その頃エジプトでは第18王朝が倒れ、第19王朝が成立。
第18王朝はシリア政策に消極的だったのですが、第19王朝のセティ1世は、ヒッタイトの宗主権下にあったアムル王国とカデシュ王国に軍を進め、ヒッタイトから領土を奪います。
ムワタリはこれを奪還するために何度も反撃をしているのです。
カデシュの戦いの以前よりずっと、奪ったり奪い返したりといった戦いが続いていたのです。
そして、エジプト第19王朝セティ1世の死後、ラムセス2世が古代エジプトの王になると、活発な軍事活動でアムル王国を制圧。
これを奪い返すための戦いがカデシュの戦いなのです。
奪い返すために起こした戦争ですから、奪還に成功したヒッタイト軍は目的を果たしています。
ムワタリはその後シリア地方の動乱に即応できるように、首都をハットゥシャからシリアに近い、南方のタルフンタッシャに移しました。
メソポタミアの宗教と学問
メソポタミアは多神教の世界で、民族が交替するごとに信仰される最高神も変わりました。
天空の神【アヌ】・地下と海の神【アプス】・アッシリアの神【アシュル】・知恵の神【エア】・天候の神【エンリル」】戦争の神【エヌルタ】・愛の神【イシュタル】・バビロニアの神【マルドゥク】・・・・・・
他にも色々な神がいます。多神教の世界であったわけです。
キリスト教やイスラム教は一神教ですね。
神はヤハウェ、アラビア語ではアッラー。同じ神です。
日本は多神教の国です。宗教という定めはありませんが八百万の神々の国です。
書いてみようかと思いましたが、量がすごいのでここはWikipediaに任せます。驚きますよ。
日本の神一覧
Wikipedia-日本の神の一覧
シュメール人が始めた楔形文字は多くの民族の間で使用され、言語が異なっても楔形文字で粘土板に書き記すことになります。
アケメネス朝の滅亡まで広く使われることになるのです。
さらにシュメール人は六十進法を発明。時間の単位として今も使われています。
バビロニア数字による1~60の楔形文字がこれです。
太陰暦と太陽暦
シュメール人はさらに、太陰暦の発明とそれに基づくうるう年を設置します。
太陰暦は月の満ち欠けの周期を基準とする暦で、現在ではイスラーム世界だけで使われていて、ヒジュラ暦と呼びます。
私達が使っているのは太陽暦を元にしたグレゴリオ暦です。
ヒジュラ暦は、グレゴリオ暦よりも約11日短く、33年で元に戻るようになっています。
このため、毎年11日ずつずれていきます。
ずれていきます、と言っても我々からすればずれているだけで、ヒジュラ暦で過ごすイスラーム世界では普通のことです。
ラマダーン月というのを聞いたことがあるでしょうか?
ヒジュラ暦でラマダーン月は、第9番目の月にあたります。
ラマダーンは月の名前であって、この月に断食をする、というのがイスラム教徒の義務です。
日の出から、日没まで飲まず食わずで過ごすのがラマダーンです。
このラマダーンは毎年11日ずつ早くなっていきます。
ただし、グレゴリオ暦の感覚で言うと早くなるだけで、ヒジュラ暦に従っている人からすれば等しく一年です。
だから、5年前のラマダーンと季節が違うとか、そういうことは気になりません。
毎年季節と月が違うのは当たり前だからです。
グレゴリオ暦で過ごす我々は、太陽に合わせて生活していますから、毎年8月は夏ですし、12月は冬です(北半球)
しかし、ヒジュラ暦は太陰暦、つまり月の満ち欠けに合わせてますので、季節はどうでもよいのです。
ヒジュラ暦は33年で一周します。
そのため、イスラム教徒は一生で同じ季節のラマダンを2回経験する、と言われているのです。
日本の様に四季がハッキリしてしまっている国だと、ヒジュラ暦は違和感があるかも知れないですね。
太陰暦を基本とした、太陰太陽暦、太陰暦のずれを修正するために入れるうるう月、一週間七日制、星占いの元になった占星術なども、この時代の発明です。
まとめ
長くなったのでまとめておきます。
・メソポタミアはアッカド帝国によって統一される。
・アッカド帝国滅亡後、バビロン第一王朝が興る
・世界七不思議の話。
・ハンムラビ王、ハンムラビ法典の話。
・バビロン滅亡後、ヒッタイト、ミタンニ、カッシートの争いに。
・メソポタミアの学問、太陰暦、太陽暦の話。