イラン人国家アケメネス朝
前回は、古代オリエントを統一したアッシリアの興亡をみてきました。
本当は一度でまとめようかと思ったのですが、あまりにも長くなってしまったため、今回は続きです。
前回のアッシリアの興亡では、アッシリアが古代オリエントを統一したものの、服属民の反乱によって滅びてしまう、というところまで進めました。
そして4つの王国が別々に成立したのでした。
簡単に復習です。
・エジプトは→古代エジプト最後の26代目の王朝です。その後アケメネス朝になります。
・リディア→世界最古の貨幣(エレクトロン貨)を使用します。ガンダウレスとギュゲス事件の国です。
・メディア→イラン人の最初の国家。ハルパゴスの復讐の話で覚えているかと思います。
・バビロニア→バビロン捕囚を実行したネブカドネザル二世の国です。
アケメネス朝の興り
4つの王国が分立していましたが、その状態は長くは続きませんでした。
6世紀半ばころにイラン人(ペルシア人)によってアケメネス朝が成立します。
さらっと【イラン人(ペルシア人)】と書きましたが、実は【ペルシア】という呼び名と【イラン】という呼び名は同じ人々を指すのです。
アケメネス朝が興ったイラン高原南西部の地域の名前を【パールス】と呼びます。
このパールスという呼び名がラテン語になり、「ペルシア」と呼ばれるようになります。
ここに住む人々は最初、「アールヤ(高貴な人々)」と自分たちのことを呼んでいました。
これが後に変化して「イラン」と呼ばれるようになるのです。
※当然地図で確認しましょう。
さらに詳しく書くと、パフレヴィー語では「エーラーン」と呼ばれていました。
さらにこれがイスラム時代になると「イーラーン」と変化します。
つまり、イラン人とは、パールスに住んでいたアールヤのことを指すわけですから、パールスが変化した「ペルシア人」でもあり、アールヤが変化した「イラン人」でもあるのです。
このサイトでは、現代のイランに住む人々をイラン人と呼ぶことにしますが、現在でも自分たちはペルシア人だと主張するイラン人も多くいます。
現代のイラン人の祖先が興した国がアケメネス朝というわけです。
メディアの滅亡
アケメネス朝は、BC550年~BC330年の約200年間オリエントを支配します。
何気なくBCと使いましたが【紀元前】という意味です。
BC、AD、紀元前、紀元後、というのは全部覚ておくと後々楽だと思いますので、混ぜて使っています。
さて、アケメネス朝の始祖(初代王)はアケメネスですが、アケメネス朝と言えば、これから出てくる3人は覚えておかなくてはなりません。
キュロス二世、カンビュセス二世、そしてダレイオス一世です。
アケメネス朝ペルシアはその昔、メディアに属する国でした。
この時のメディア王はアステュアゲス。
そう、ハルパゴスの復讐により殺されてしまった王様です。
そして、このアステュアゲス王の孫の名前がキュロス2世です。
メディアの将軍であったハルパゴスの助けを借りることで、メディアを滅ぼすことに成功した人物です。
ハルパゴスがメディア王を裏切りキュロス二世を助けたわけですが、アステュアゲス王には当然の報いですね。
キュロス2世がメディアを滅ぼしたのがBC550年。
つまり、自分を支配していた国(メディア)を滅ぼし、アケメネス朝が始まったということです。
リディア、新バビロニアの滅亡
そしてさらに、キュロス二世はリディアも滅ぼします。
リディアを滅ぼした際、キュロス二世が連れて行った軍隊の名前が【不死身の一万隊(不死隊)】
なんだか、映画にでも出てきそうな名前ですが、選びぬかれた一万人の部隊です。
選び抜いて一万人か、と思うかも知れませんがこの時代の戦争は何十万という人数がぶつかりあっていましたので、一万人で十分に精鋭部隊と言えます。
この不死隊の定員は常に一万人です。
人数が減るとすぐに補充されていくため、必ず一万人です。
英語では「immortals(インモータルズ)」といい、不滅隊というような意味があります。
インモータルズ、というタイトルの映画がありますので、興味があれば是非見て下さい。
勢いに乗ってリディアを滅ぼしたキュロス2世は、さらに新バビロニアも滅ぼします。
イケイケですね、キュロス二世。
新バビロニアと言えばバビロン捕囚ですが、捕らわれていたユダヤ人を解放したのもキュロス2世です。
ユダヤ人にかぎらず、バビロンに強制移住させられていた民族も解放します。
バビロン捕囚については、8.東地中海世界ーバビロン捕囚を参考にしてください。
簡単に言うと、ユダヤ人がバビロニアの王ネブカドネザル2世に誘拐される話です。
現代まで続くユダヤ人思想の始まりとも言える話なので、知らないということであれば是非一読を。
さて、キュロス2世は新バビロニア王国滅ぼしたので支配することになったのですが、その地で暮らす人々には優しい態度で接しました。
さらに、ユダヤ人を解放したということで、旧約聖書ではメシア(救世主)のひとりとして記録されています。
あれ?メシアってキリストのことじゃないの?と思ったかも知れません。
実は、「メシア」は一人ではありません。
救世主、という意味で使われているのが、メシアというだけです。
ユダヤ教、キリスト教でもメシアは違いますし、イスラム教ではムハンマドがメシアです。
日本で一番有名なメシアはイエス・キリストというだけなのです。
この辺りはかなり面白いのですが、長い話になるのでもう少し後の時代で話します。
日本では宗教に拒否反応を示す人が多くいますが、世界史を知ると宗教自体は拒否するものではないと気付くことが出来ます。
特に、宗教がいかに世界を動かしてきたかを知ると、ますます世界史が面白くなることまちがい無しです。
キュロス二世の最期
絶好調のキュロス2世でしたが、最後は「マッサゲタイ人」というカスピ海周辺を支配していた遊牧民に殺されてしまいます。
キュロス二世の最期は、ヘロドトスの「歴史」に記述が残っているのでその一部をお話しします。
遊牧民国家であるマッサゲタイ人の国は、トミュリスという女王が支配する国でした。
キュロスは、このトミュリス女王と結婚しようとするのです。
※ルーベンス作、トミュリス女王(画像》
ただし、トミュリス女王が好きだから、という理由ではなく権力の座を狙ってのことです。
トミュリス女王はキュロス二世の策略に気づき、怒ってしまうのです。
一方キュロス二世も、策略がうまくいかず結婚出来ないことがわかると、力ずくで支配をしようと戦争の準備を始めるのです。
マッサゲタイ人が支配する地域と、キュロス二世の支配する地域は、川で分断されていました。
ここに橋をかけて進軍しようと考えたキュロス2世。
色々な国を滅ぼし、自分の力を過信していたのでしょうか。
キュロス二世は敵の目の前にも関わらず、堂々と橋をかけ始めるのです。
それを見たトミュリス女王が、キュロス二世に言うのです。
「戦う気ならば橋を作るような面倒はやめよ。攻めてくる気があるならば、我々が3日かけて退いたあと攻めてくるが良い。もしくは、我らを貴国に迎え入れて一戦交えるなら、同じようにされるが良い」
退(しりぞ)く、ということは要するに、軍隊が渡れるスペースを作る、ということです。
この時代は何万人という軍隊同士がぶつかり合っていましたので、仮に橋を架けたところで軍隊が渡れるスペースが無ければ意味がありません。
つまりトミュリス女王が言いたかったのは、川を渡ってこっち(トミュリス側)に来て戦うか、もしくは、そっち(キュロス側)がスペースを空けてくれればこっちから乗り込んでやる、という意味です。
どちらにしろ戦うなら、逃げも隠れもしないから橋をかけるなんて面倒はやめろ、ということです。
かなり強気ですねトミュリス女王。
このトミュリス女王の言葉を聞いたキュロス二世陣営は、王者の余裕で「迎え撃つ」という作戦でいこうとしていました。
しかしここで、元リディアの王、クロイソスが反対します。
そして、クロイソスは作戦を立てるのです。
「自分の陣地(キュロス側)に肉と酒をありったけ用意して、相手側に攻め込みましょう。そして最も弱い部隊だけを残し、他の者は引き上げてくるのです。そうすれば敵はご馳走を目にして、必ずそこへやってきます。そこを狙うのです」
戦いが始まるとクロイソスの作戦通りに進みます。
トミュリス女王軍を攻めたキュロス二世の部隊は最弱の部隊ですから、すぐに押し返されてしまいます。
そしてマッサゲタイ人の軍隊は、通常の3分の1の人数で、残りの部隊に襲いかかります。
トミュリス女王軍は余裕で勝てると思ったのでしょう。
そりゃそうです、まさか最弱の部隊が自分たちの相手とは思っていないのですから。
だから追い打ちも少人数でした。そしてご馳走と酒を見つけて、余裕で食べ始めたのです。
満腹になって寝てしまったトミュリス女王軍をキュロス二世のペルシア軍が攻撃。
捕虜として捉えた中にはトミュリス女王の息子がいました。
それを知ったトミュリス女王はキュロス2世に使いを送り、こう言うのです。
「部隊の3分の1を失ったが、そなたの罪は問わぬ。私の息子を返してこの国を去れ。そうしなければ、血を求めるそなたに飽きるまで血を見せることを神に誓う」
作戦にまんまとハマったのはトミュリス女王の方です。
それなのにこのセリフ。なんとも強気な女王です。
キュロス二世はどうしたかというと、トミュリス女王の言葉を無視します。
トミュリス女王の息子は、酔いから覚めて自分の置かれた状況を把握すると、縛りを解いて欲しいと願い出ます。
するとすかさず、自ら命を絶ったのです。
結果としてキュロス二世は、トミュリス女王の警告に反したことになってしまいました。
トミュリス女王はマッサゲタイ人の全兵力をもって、キュロス二世率いるペルシア軍を倒します。
そしてトミュリスは革袋一杯に血を満たし、ペルシア軍の戦死者の中からキュロスを見つけるとその首を落とし、革袋の中に放り込むのです。
そして、こう言います。
「私は戦いには勝った。しかし、勝負は私の息子を謀略によって殺したそなたの勝ちだ。約束通り、飽きるまで血を見るが良い」
映画の主人公のような女王ですが、あまり日本ではメジャーでは無いですね。
こうしてキュロス2世は殺されてしまいましたが、その事業は息子に引き継がれます。
息子の名前はカンビュセス二世。
のちにエジプトを征服し、オリエントを統一する王です。
簡単にまとめ
アッシリア滅亡後、4つに分立した国家の中で、イラン人国家アケメネス朝が興る。
(これがBC550年ころ)
キュロス二世によって、メディア、リディアが滅ぼされ、さらに新バビロニアも滅亡。
この時に、バビロン捕囚からユダヤ人を助けたキュロス二世はメシアとして讃えられる。
しかし、キュロス2世はオリエント統一を目前にして、マッサゲタイのトミュリス女王に殺される。
その後、キュロス2世の息子である、カンビュセス二世へオリエント統一事業が引き継がれる。