シャー・カンビュセス
キュロス2世はオリエントの統一まであと一歩というところで死亡してしまいました。
その後、キュロス二世の統一事業を継いだのが、息子であるカンビュセス2世です。
カンビュセスは父であるキュロス二世とダブルで王様、というような立場だったのですが、紀元前530年にキュロス二世が死亡したため、カンビュセスが単独の王となります。
アケメネス朝での王の称号は「シャー」と言います。
この「シャー」という言葉には【諸王の王】とか【世界の王】という意味があります。
当時のオリエント地方には国は一つではなく、いくつかの国がありました。
それぞれの国に王様がいましたが、「シャー」はそれらの王様を束ねる王、という意味がありました。
この「シャー(諸王の王)」という称号(呼び方)と、「シャーハンシャー(皇帝)」という称号はとても歴史のある呼び方です。
ペルシアでは多少の変化はするものの、古くからこの称号が使われ続けました。
アケメネス朝ペルシアはオリエントを統一した偉大な国家ですから、他の王様も「シャー」という称号を好んで使ったのだと思います。
だから、カンビュセス2世は「シャー・カンビュセス」というわけです。
ペルシア(イラン)の歴史を学んでいると、「シャー・◯◯」という呼び名が結構出てくるのですが、これは「王・◯◯」という意味です。
◯◯大統領、◯◯親分、とかそんな感じに考えいればオーケーです。
ただし、ただの王様ではありません。
「諸王の王」ですからね。
カンビュセス2世のエジプト遠征
シャーになったカンビュセス二世はエジプトも征服し、オリエントをついに統一します。
統一するという言葉は歴史を学んでいると結構出てきますが、要するに支配下に置く、もしくは同盟などを結ぶことだと思って下さい。
日本も昔は統一されていませんでしたよね。
そう、戦国時代です。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。
彼らは日本を統一しようと合戦をしたり、同名を結んだりしたわけです。
これと同じことだと思って下さい。
カンビュセスの父であるキュロス二世は中東を制覇し、残す単独国家はエジプトだけとなっていました。
エジプトさえ支配することが出来れば、オリエントは統一されるのです。
ところで、どうして王は統一をしようと考えると思いますか?
王様なんだからふんぞり返って威張ってれば、良い生活は出来ると思いませんか?
わざわざ危険な戦争をしなくても、十分に暮らしていけるはずです。
みんながみんな、そう思っていれば確かに戦争は起こりません。
ところが、周囲の王様のうちひとりでも違う考えを持っていると戦争は起こってしまうのです。
自分の国を守るため、攻めてくる前に自分の味方にしてしまおう。
自分は国を平和に保っていく自信があるから、相手には自分に従ってもらおう。
どうでしょうか?正しい考え方ですよね?
自分は平和が好きだから、相手を味方につけてしまえば戦争は起こらないのです。
しかしこの時に、どちらが上に立つか、で大抵揉めます。
揉めた結果何が起こるかというと、戦争が起こるのです。
要するに、戦争が起こる原因は、大きな権力を持った人同士の喧嘩だということです。
攻めこまないと、攻め込まれる危険がある。
だから先に攻める。攻めこまれたら反撃する。これが戦争なのです。
ちょっと話がずれました。
エジプトの場所を地図で確認しておきましょう。
※エジプトの地図
カンビュセス二世にまつわる話
この時代は神話と史実がごちゃごちゃに混ざり、色々と面白い話があります。
カンビュセス2世にも、彼自身にまつわる話が記録されています。
それを少しだけ話しましょう。
カンビュセス二世にはスメルディスという弟がおりました。
エジプトへの遠征を控えたカンビュセスは、睡眠中にスメルディスに王位を奪われる夢を見ます。
そしてその夢のお告げを信じこみ、密かにスメルディスを殺害してしまうのです。
秘密のうちにスメルディスを殺させたので、誰もスメルディスが殺されたことを知りません。
そして、カンビュセスがエジプトに遠征に出てしまうと、王様不在の状態となります。
そこを狙ったのがペルシア本国大神官のガウマタ。
自分はスメルディスである、と名乗り出てペルシア帝位を奪うのです。
そしてこのガウマタを倒したのがダレイオス1世。
ダレイオスの妻はスメルディスの娘です。
という物語が、ヘロドトスの「歴史」に記録されてはいるのですが、近年ではこの偽物出現の話は作り話であり、ヘロドトスはこの嘘の話を記録してしまったとされています。
実際にはスメルディスは殺されておらず、スメルディス本人がカンビュセスから帝位を奪い、その後スメルディスをダレイオス1世が倒した、というのが事実のようです。
いくらなんでも、王様の弟に成り代わるという話には若干無理が有りますよねぇ。
ペルシウムの戦い
さて、カンビュセス二世の歴史に戻りましょう。
紀元前525年、ペルシアとエジプトの戦争が始まります。
この辺りは教科書ではほとんど触れていませんが、ここを話したほうが面白いので当然触れます。
ペルシウムの戦いは、カンビュセス二世とエジプト第26王朝・プサムテク三世による戦争です。
カンビュセスはアラビアの族長達と同盟を結び、砂漠の遠征に備えて水の提供をしてもらうなど、万全の体制を整えました。
一方、エジプト側のプサムテクはギリシアとの同盟があれば問題なく勝てる、という楽観的な考えで戦ったのです。
いざ戦争が始まると、エジプトと同盟を結んでいたはずの国々が次々とペルシア側に寝返りエジプトは壊滅。
まもなく首都メンフィスが陥落。
エジプト王プサムテクは捕虜となりますが、その後反乱を試みるも失敗し、処刑されてしまうのです。
戦争に勝ったカンビュセスは、エジプトの王の称号である「ファラオ」を公的に使うようになります。
ここで、カンビュセス二世によるオリエント統一は達成されました。
ファラオ、はエジプトでの王の称号です。
だから、ファラオは歴史上何人もいます。
一人だけではありませんので、勘違いのないようにしてくださいね。
カンビュセス二世の最後
その後カンビュセス二世は、現在のスーダンに位置するメロエ地方の征服に乗り出します。
しかし砂漠を越えることが出来ず、深刻な被害を受け帰還することになります。
※メロエ地図
一方、カンビュセス不在のペルシア本国では、先程も話した通り弟のスメルディスが王位を奪い、さらにダレイオス一世がその王位を奪う、という事件が起きます。
国のためを思って遠征に出ているのに、自分の部下にその王位を奪われてしまうのですからたまったものでは無いですね。
こういうことを恐れて、遠征に出ない王も中にはいるようですよ。
さて、カンビュセス二世はこの反乱を沈めようと試みるのですが、成功の可能性を見いだせず自ら命を絶ってしまうのです。
カンビュセス二世の墓の遺跡は2006年に発見されました。
エジプトをも支配下にし、オリエントを統一したカンビュセス二世。
しかし、そのカンビュセス二世が反乱を沈めることが出来なさそうだ、と自殺してしまう。
ということはつまり、ダレイオス一世はものすごい才能を持っていたのでしょうか?
実はその通りで、ダレイオス一世はものすごく優秀です。
世界史上良く耳にする、ペルシア戦争。
ここで必ず名前が登場するのが、このダレイオス一世なのです。
この辺りから、知っていたり聞いたことがある、という項目が増えてきます。
次回はダレイオス一世の大帝国の話を進めましょう。